「算数」セクションの作品 杉本博司 Courtesy:ギャラリー小柳(東京) 展示風景:「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」森美術館(東京)2023年 撮影:古川裕也 画像提供:森美術館

 

分断され、細分化された世界では、多様性と普遍性を見つめる総合的な視点が求められる。立教大学は森美術館との共同プロジェクト、トークセッション・シリーズ「知らない世界とつながってみる」を6月16~18日に開く。東京・港区の同美術館で9月24日まで開催中の「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」展での関連企画だ。

 

同展は、従来の「美術」の領域をこえて多分野に広がる現代アートを、学校教育の諸科目と関連付けて展示する。トークセッションでは同大学の各分野の専門家と同展出品アーティストが登壇し、分野相互のつながり、現代アートとのつながり、「世界」の多様性と普遍性などについて語る。

 

初日は西原廉太氏(立教大学総長、文学部キリスト教学科教授)、片岡真実氏(森美術館館長)が登壇する。要予約。初日500円、2,3日目は千円。森美術館ラーニングサイトURLmori.art.museum/jp/learning/

これと別に、学校法人立教学院の中・高・大生が事前研修を経て、8月以降に同展の作品解説を会場で発表する予定。

 

以下、今回の展示内容に関連して、リベラル・アーツ、神学と諸学問、アートとの連関などの論点を紹介しつつ、具体的に作品も見ていこう。

 

アートで広がる「教室」

 

ワン・チンソン(王慶松)《フォロー・ミー》 2003年 
所蔵:森美術館(東京) 「国語」セクションで展示

 

片岡館長は森美術館ホームページで、異なる価値観や歴史観、急速な気候変動といった課題が複雑に絡み合う現代社会の状況を示し、「現代アートはこうした世界を映し出す縮図」だと述べる。

同美術館は国際的な視点による多様な展示会とともに、市民向けに、現代アートを通して様々な体験学習をするラーニング・プログラムを提供している。それらを通して、「美術館や地域という現実の空間で、五感を刺激する実体験を提供し、それぞれの作品の背景にあるストーリーや文脈も含めて理解を深めること」を重視している。

今回の「ワールド・クラスルーム」展もその内容自体が教育と関連する。豊富なラーニング・プログラムでは、立教学院とのコラボのほか、広く市民向けの講座が用意される。

 

こうした取り組みは、2020年から小中高で順次実施されている現在の学習指導要領の方向性ともリンクする。

現在の学習指導要領のテーマは「生きる力 学びの、その先へ」。「何のために学ぶのか」という学習の意義を共有し、主体的・対話的で深い学び(アクティブ・ラーニング)などが重視されている。
(文部科学省ホームページ 学習指導要領「生きる力」https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/ 参照)

 

同展は、展覧会のセクションは「国語」、「社会」、「哲学」、「算数」、「理科」、「音楽」、「体育」、「総合」の8科目に分かれる。1科目でも充実した内容だが、「あらゆる科目に通底する総合的な領域」に注目している。

こうした分野横断的な視点で近年再評価されているのは「リベラル・アーツ」だ。

 

 

 

「『知の全体像』を皆がある程度は共有しないと、社会全体として前に進めない」(『現代のリベラルアーツとは何か よりよく生きるための「知の力」』テンミニッツTV編、NHK出版、2020)。

あるいは

「(知識を)連関させながらクリエイティヴな思考や活動に結び付けていく動的(ダイナミック)なプロセスこそが行動的知性を育む」(『21世紀のリベラルアーツ』石井洋二郎、藤垣裕子、國分功一郎、隠岐さや香共著、水声社、2020)などと言われている。

日本の場合、2011年の福島第一原発事故が専門家によって防げなかった反省から、市民や多様な領域の人々が知恵を出し合う必要性も語られている。

 

21世紀に求められる「リベラル・アーツ」

 

ヨーロッパでは、中世以降、大学で神学を準備する教養科目として「自由七科」(文法学、論理学、修辞学、算術、幾何学、音楽、天文学)が学ばれた。これがリベラル・アーツのルーツとされる。

日本でリベラル・アーツを広げたのは戦後に米国の協力で設立された国際基督教大学(ICU)だ。

 

  

 

ICUの歩みは、リベラルアーツというそれまでの日本に無かった教育理念を戦後の大学に植え付ける作業」であり、「ICUは常にリベラルアーツの実験の場になってきた」と言う(『リベラルアーツという波動答えのない世界に立ち向かう 国際基督教大学の挑戦』伊東辰彦・森島泰則共著、学研プラス、2019)。

 

ICU学長も務めた大口邦雄氏の『リベラル・アーツとは何か その歴史的系譜』(さんこう社、2014)では、ヨーロッパで生まれ、アメリカ、日本にわたったリベラル・アーツの歴史を振り返る。

啓蒙主義時代以降、哲学が諸学部を批判的に検証する基礎づけとなったが、19世紀になると、専門分化が進み、哲学部は精神科学と自然科学に分かれた。

哲学部の分裂は「学問の有機的統一とその上に立つ学問共同体」である大学の理念の崩壊を意味した。

アメリカでは、教派立の大学でリベラル・アーツが残っていたが、南北戦争後、実学志向が強まったという。

日本では近代後、専門性を重視するドイツ型の教育が大学に導入された。

戦後のICUは「自由のための教育」「教養ある市民を教育するに適する一般教育を推進する」ことを目的にリベラル・アーツが進められた。

 

前述の『リベラルアーツという波動』ではキリスト教への言及は少ないが、共著者の森島氏が高校生との対話の中で、「人間が知ることの中には自然界の事実の他に『正義』や『愛』などの概念や歴史的事実もある。しかし、これらの概念や歴史の真実性は科学的方法では解明できない」として、宗教、神、キリスト教について紹介する点は注目したい。

 

 

森島氏は『科学ですべて解明できるのか? 「神と科学」論争を考える』(ジョン・レノックス著、いのちのことば社、2021)を翻訳し、「多元化する現代社会において・・・異なる世界観を持つ人々の意見や批判に真摯に耳を傾けなければ自己満足に陥る危険性がある」とした上で、キリスト教の視点が「科学が描く世界像」を外部から吟味できること、「科学が提供する知識と聖書が啓示する真理は調和する」ことを述べる。これらはリベラル・アーツの中でのキリスト教弁証論となるだろう。

 

 

 

聖書信仰を重視する東京基督教大学が発行した『キリスト教世界観とリベラルアーツ : 日本におけるキリスト教大学のアイデンティティ』(ステパノ・フランクリン著、豊川慎訳、いのちのことば社発売)は「キリスト教信仰は存在のすべての次元に関わる」と主張する。

 

創造論は、「キリスト者とそうでない者の双方に共有される要素」の基礎となり、罪の教理は、「人間の知識は暫定的であり、ある種の懐疑的態度をもって捉えられるべき」であり、贖罪では、キリストが「真の人間の自己モデル」となり、受肉が「物理的存在を要求する」。

 

人間はトータルな人格をもつ存在であり、「リベラルアーツは、この全体性が反映されているべき」と述べる。

こういった問題は、神学が諸学問の総合の中で、どのような位置をもつかにかかわる。この点をさらにみていこう。

 

諸学の総合をめぐって

 

『神学とキリスト教学』(神代真砂実・川島堅二・西原廉太・深井智朗・森本あんり共著、キリスト新聞社、2009)は伝道者養成のための神学と宗教学としてのキリスト教研究の間の問題を議論する。

神代氏は「神学が『教会の学』でありながら、同時に世界に対しても責任を持っている」と指摘する。「罪の問題を契機として、一般的な学問に対する根源的な問いかけをなし得る」。「理性の検証」や「学問の意味や目的についての問いを提出する」のだ。

現立教大学学長の西原氏は、同大学の学科名になっている「キリスト教学」の由来を検証。多元主義的な日本の社会の中で「諸学との対話を深めながら広い視野で研究を行いうる」名称だったと見いだす。すでに西洋も多元化しているとして、「キリスト教学」の問いはむしろ、日本だけでなく普遍的な「神学」の問いになっていると指摘した。

ところで西原氏は昨年、森美術館館長の片岡氏とのシンポジウムに登壇し、脱植民地主義、ジェンダー、五感や身体性への関心など、現代神学と現代アートの類比的関係に言及した。(参考:現代美術の潮流とキリスト教神学が響き合う 立教・西原氏ら「あいち2022」代表者とシンポ 2022年7月26

 

青山学院大学では研究プロジェクト「キリスト教大学の学問体系論」が2011~14年に実施された。このテーマで3冊の翻訳書が刊行された。

 

   

 

『大学のあり方〜諸学の知と神の知〜』(スタンリー・ハワーワス著、ヨベル、2014)では、神学は「真理全体」にかかわるとして、「他の諸学問は神学を必要とする」。一方神学も「他の諸学問」を必要とするという。

一方、「神学が大学の諸学問の無秩序を整えて秩序化する学問の素ぶりをする」ことは、「キリスト教世界の習慣を再生しようとする懐古的な試みになるのではないか」と慎重だ。「神学は、謙遜ということがその働きを決定づけているときのみ、学問の『女王』」という。

他の二書『諸学の体系 学問論復興のために』(パウル・ティリッヒ著、清水正、濱崎雅孝訳、法政大学出版局、2012)、『学問論と神学』(W. パネンベルク著、濱崎雅孝・清水正・小柳敦史・佐藤貴史訳、教文館、2014)は、神学と諸学との連関を考察する。

『学問論と神学』は、言語論的転回、論理実証学、解釈学的転回など、目まぐるしい現代思想の変化に対応している。

中世以来、学問の規範やモデルが神学、哲学、数学と移り変わった状況を詳しく記述する。

「神学を諸学科と区別することは、事実的に一組になっているものを分離してしまう」と述べる一方、本書では、具体的に諸学科との関連を述べるのではなく、現代科学論の定義に応答可能な、神学の学問性の要件を追究していく。

『諸学の体系』は、具体的に諸学問の体系を構想していく。柱となるのは「思惟」と「存在」という二要素だ。二要素の統一性が学問体系論を可能にするが、「精神科学」がその基礎となる。

思惟科学は、論理学、数学。存在科学は、物理学、科学、地質学、地理学、生物学、心理学、社会学、歴史学、人類学、言語学などを位置づける。

精神科学には哲学が位置づけられるが、その対象として芸術、形而上学、法、共同体、エートスが扱われる。そしてこれらの対象は「神律的な体系論」として神学で再度扱われる。

 

 

『21世紀の信と知のために キリスト教大学の学問論』(西谷幸介・茂 牧人編、新教出版社、2015)は、「キリスト教大学の学問体系論」プロジェクトを振り返る。

『諸学の体系』の訳者清水正氏は、「諸学の体系化は神律的理性による規範設定によって構築されるのであり、それは動的真理思想という『プロテスタント的な真理概念』において可能になる」と解説する。そして「神律的な学問を研究し、それを教授することこそ、キリスト教大学に相応しい」と言う。

 

さらに、

 

 

神学を「第一義的に聖書を基盤とし、文化一般の文脈の中で、今日的な表現を用いて、生の諸問題に関連づけながら、キリスト教信仰の諸教理についての首尾一貫した言明をするべく務める学」とする、ミラード・J・エリクソンの『キリスト教神学』(宇田 進 監、安黒 務 訳、いのちのことば社、2003)や、

「聖書を土台とした神学的知を前提とする聖書信仰ではなく、聖書の知を他の知と連携し、整合させながら神学していく」ポストモダンの神学状況下で、「御言葉の客観的過去性」と「実存的今日性」との緊張関係の中で神学を模索する『聖書信仰 その歴史と可能性』(藤本満著、いのちのことば社、2017)も今回の議論に関係してくるだろう。

 

以上、リベラル・アーツ、神学と諸学問の連関について、いくつかの著作を簡単に紹介した。

ここでアートが諸学問と総合的にかかわるとはどういうことか。アートの自律性との関係で近年の論点を整理し、作品に向き合おう。

 

「愛」と「知」のアート

 

「リベラル・アーツ」(Liberal Arts)に中に「アート」(Art)が含まれている。このことがアートが、いわゆる美術、芸術をこえて他分野にかかわる潜在能力があることを示している。

そのことを強く押し出したのは、哲学者やジャーナリストがコンセプトや企画にかかわり、「情の時代」をテーマにした、2019年の国際芸術祭「あいちトリエンナーレ」だろう。

 

記録集『あいちトリエンナーレ2019 情の時代』津田大介監修、あいちトリエンナーレ実行委員会編、生活の友社、2020

 

そのコンセプトでは、「『アート』という言葉も初期近代までは『古典に基づいた教養や作法を駆使する技芸(ars)』一般を指していた」と指摘する。(※arsはラテン語)

情報の過多、分断、事実よりも感情を優先する世界情勢を概観し、「データ至上主義の政治が台頭したことで、かつての人文主義的な教養や技芸と深く結びついた統治技術(ars)は」廃れたと述べる。

一方で「連帯」や「他者への想像力」を生む「情」(compassion)があることに希望を見いだす。

それゆえ「情によって情を飼いならす・・・技(ars)を身につけなければならない。それこそが本来の『アート』」と言う。

つまり、現在再評価されているアートは、単に美術館で鑑賞するだけのアートではないのだ。

 

現代アート作品は多様な見方に開かれている。今回「ワールド・クラスルーム」展は8科目に作品を分類するが、一つの科目に収まらない部分もある。当然ながら、個々の作品は、その科目をテーマに作られた訳ではない(いくつか本展のための新作はある)。

「技」として諸芸に開かれたアートの視点を紹介したが、一方で個々の作品に向き合う重要性も押さえたい。

現代哲学者マルクス・ガブリエル氏は、『アートの力 美的実在論』(大池惣太郎・柿並良佑訳、堀之内出版、2023)でアート作品には、個々の作品固有の「ラディカルな自律性」があると強調している。

ただし、自律性はどこまでかという議論はある。ティリッヒは『諸学の体系』の中で、「神律」、「自律」、「他律」の緊張関係を論じている。その結論部分では、「認識と愛の一致において、生にとっての学問の意味は最高の形で表現されている」と述べる。

ここで「愛は他者の個別の形式の否定ではなく肯定」であり、「事物の個々の形式の承認」だ。そして「神律と自律との統一」が完全となったときに「学問はあらゆる意味充実化の行為と同様に、その真理性に到達する」と言う。

 

本稿では作品について簡単にしか触れられないが、ぜひ実際に個々の作品に触れ、その自律的な美に向き合いつつ、その背後にある目に見えない精神の領域や、「技」の可能性に思いを向けてほしい。

 

「世界の教室」で学ぶ

 

今回は8科目のうち、「社会」「理科」「哲学」「総合」に注目しよう。

 

まずは「社会」から。

アイ・ウェイウェイ(艾未未) 展示風景:「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」森美術館(東京)2023年 撮影:古川裕也 画像提供:森美術館

 

男が壺を落としている。その姿が連写三枚で展示されている。思わず壺が割れる衝撃を想像してしまう。

しかし、この壺が2000年前の漢の時代のものだと知れば、その衝撃は何倍にも増す。文化遺産をないがしろにすることへの怒りも覚えるだろう。伝統的な価値観に挑戦するアーティストの姿ともとらえられる。

だが現代中国ということを考えると、文化大革命で多くの文化財が破壊されたことも想起される。

少々過激なパフォーマンスを通して、より巨大な歴史や社会の闇を浮かび上がらせるのもアート作品の力だ。

 

次に「理科」を見てみよう

瀬戸桃子《プラネットΣ》2014年 ビデオ、サウンド 11分40秒(ループ)所蔵:森美術館(東京)

 

一つの惑星の姿が、ダイナミックに、ときに虫の目で映し出される。海底火山が噴火し、氷が解けて、解凍された昆虫たちが動き出す。

菌類が成長して、生態系ができるが、再び火山が噴火し、海が干からび、植物や虫も死に絶えていく。マクロレンズ、スローモーション、タイムラプス技法が使われているという。気候変動、環境破壊、などをまざまざと感じさせる。

 

「哲学」では、観念を問うもの、実在、時間、生と死などの根本原理や、祈りや瞑想的、宗教性ある作品が展示された。引き取り手のいない遺体に向けて、丁重に「死」について講義する映像など、尊厳を考えさせる作品もあった。

宮島達男《Innumerable Life/Buddha CCIƆƆ-01》 2018年 所蔵:森美術館(東京) 撮影:表 恒匡 画像提供:Lisson Gallery

 

宮島作品は1万個のLEDがそれぞれ異なったスピードでカウントする。一つひとつのライトは生命をあらわし、暗転は死を意味するという。小さくとも、それぞれ違った命の集合に思いをはせる。

 

最後に「総合」から。

高山 明 展示風景:「ワールド・クラスルーム:現代アートの国語・算数・理科・社会」森美術館(東京)2023年 撮影:古川裕也 画像提供:森美術館

 

高山氏は演劇家だが、劇場ではなく、主に都市空間を舞台に、ツアーやパフォーマンス、社会実験など実施し、参加者(観客)の受容体験によって空間の変容をもたらす。ルター、ブレヒトに連なるドイツの「教育劇」をヒントにしている。

ツアーでは東京オリンピックや巣鴨プリズンの記憶を都市の中にさぐるもの、アジアのまなざしから見た東京を追体験するもの、など東京の複数のレイヤーを浮かび上がらせる。パネルや、映像、音声の記録で鑑賞できる。

東京の中のアジアの物語を観光しながら視聴できる「東京ヘテロトピア」はアプリで、移民・難民が教授となる「マクドナルドラジオ大学」は近隣の店舗で、体験できる。

 

以上、いくつかの作品から分かることは、アートは「技」であって、多様なテーマを扱えること、同様のテーマでも表現方法は様々であり、また独特の構成や素材を用いて、直観的に何かを感じ取れる「美」があるということだ。

学校の夏休みを含む9月までの期間、展示と様々な関連イベントに触れながら、それぞれの「自由研究」を深めてみてはどうだろう。

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